2004-5-1
特集/政教分離めぐり、違い際立つ「二つの司法判断」
靖国参拝違憲判決の見事さと選挙活動不問の非課税判決

ジャーナリスト 溝口 敦

迫力感じる靖国参拝違憲判決

 福岡地裁は4月7日、小泉首相の靖国参拝を明確に違憲とする判決を下した。
 「裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高い。当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考えた」という危機感と緊張感の下、「その行為の行われた場所、その行為に対する一般人の宗教的評価、行為者の意図、目的、行為の一般人に与える効果、影響等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断すると、憲法二〇条三項によって禁止されている宗教的活動に当たり、同条項に反する」と明快に結論づけたのだ。
 年を加えるごとに政教分離原則の風化が進む中、歯止めの一石となる判決であり、長く判例として残るにちがいない。裁判官の職務を毅然と賭けたかのような論旨には、思わず襟を正す迫力さえ感じられる。
 対して、公明党の神崎代表は記者会見で「首相の靖国参拝は憲法上疑義がある。参拝は自粛されるべきではないか」とふやけたコメントを出しただけである。創価学会・公明党は自民党との政権に参加し、日夜、その言動で政教分離原則を踏みにじっているわけだが、「小泉首相が靖国参拝を続けるなら閣外に去る、連立は解消する」ぐらいの発言はあっていい。もちろん政教分離の立場からではなく、他教団を、中でも神道を憎悪する観点からである。過去、創価学会が神社や神道を敵視することは並大抵でなかった。神社に参拝に行かない、神社の前で拝礼しない、神社を中心にする氏子の祭りなどに対しては町内会の寄付さえ拒むなど、対決する姿勢を徹底していた。
 たとえば学会員の教科書として使われていた『折伏教典』(1966年、改訂16版)は次のように神道に批判を加えていた。
 「日本の国家神道として全国民に君臨し、ついに邪教の本体を現して、軍部とともに日本民族を滅亡の道へと導いたのであった。現在、敗戦とともに一挙に失った権威を取り返すすべもなく、神札販売、結婚式場の運営、お祭りなどにしがみついて余命を保っている」
 創価学会がその体質とする排他独善性の対神道バージョンとでもいうべき記述だが、「わが神(だけが)尊し」をホンネとする宗教としてはきわめて分かりやすい。「神道を認めず、神道と席を同じくせず」は一宗教者の立場としては許容できる。特定の宗教を信じるのも、特定の宗教を忌避するのも信教の自由の埒内にあることだからだ。
 まして初代の牧口常三郎会長は天照大神の神札を受けることを拒んで治安維持法の違反と神札への不敬罪に問われ、未決のまま巣鴨拘置所で死亡している。
 「牧口会長は『神札は絶対にうけません』と申し上げて下山したのである。『一宗が滅びることではない、国家が滅びることを嘆くのである。日蓮大聖人の御悲しみをおそれるのである。今こそ国家諫暁の時ではないか。何を恐れているのかしらん』これは下山に際しての牧口会長の述懐である。
 牧口会長の心境は、日蓮大聖人の金言を恐れ、仏罰を恐れ、日本民族が、悲惨のどん底に陥ることを恐れたのである。それを実証するかのごとく、時すでに日蓮大聖人が立正安国論で予言された他国侵逼難の様相が現れはじめていた。戦局ははっきり敗戦の方向を示していたのである」(東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』)
 創価学会は本来、伊勢神宮や靖国神社を敵とする立場に立つ。にもかかわらず、福岡地裁の違憲判決後なお「靖国参拝を続ける」と公言する小泉内閣に留まり続けるのは、その教義を相対化し、政権病に罹患したからだろう。創価学会は新宗教として明らかに世俗化し、風化し、現状への激しい抗議という初期の目標と体質を失っている。
 だが、とはいえ法制上、創価学会が政治団体に変じて、宗教団体でなくなったわけではない。過日、龍年光氏らが提訴していた、東京都が創価学会の会館に対して固定資産税を課税しないことの違法性の確認を求める裁判では、残念ながら請求を棄却する判決が出た。会館を選挙運動などに利用しようと、非課税措置は妥当としたのである。日本の税務官庁には宗教活動の内実を問う視点は絶無である。

アメリカなら「免税資格」取り消しになる

 96年、たまたま筆者が大蔵省主税局の担当官に質問したところ、彼は色をなして反論した。
 「全世界どこでもとはいわない。少なくとも先進国では一貫して宗教活動に税をかけていない。日本が宗教活動に課税すれば国際問題になる。この点について論議する余地はまったくない」
 だが、実際は違う。国立国会図書館がオウム事件の発生後にまとめた仏、英、独、米の宗教団体法制と税制についてのレポートを見ても、日本のようにいったん宗教法人として認証したが最後、自動的に非課税を続けるような甘い国はないのだ。
 たとえばフランスである。新宗教はカトリック、プロテスタント、ユダヤ教とは別扱いされ、結社法の第一章によりほとんどが「届け出社団」になる。「届け出社団」になっても、法と良俗に反する不法な動機、もしくは目的のために設立された社団、また国や共和国政府に対する攻撃を目的とする社団は無効とされる。現にクリシュナ意識国際協会は社会秩序の観点から儀式と集会を禁止されたし、また「届け出社団」になることが直ちに税法上の優遇措置をうけられることにもならない。
 さしずめオウム真理教(アレフ)なら届け出社団になることさえ許されないだろう。創価学会に対してもカルト教団的な疑いを消し去ってはいない。カトリック、プロテスタント、ユダヤ教という伝統教団だけを特別にくくり、仏教系や他の新宗教を別扱いすれば、日本ではたちまち信教の自由違反、宗教差別と大問題になるだろうが、政教分離の国、フランスでさえ国の伝統と事情といった特殊性を堅持しているのだ。

 ドイツでは宗教団体が法人格を取得しても、州課税庁の免税資格審査に適わなければ税の優遇は受けられない。日本でいうなら、文部科学省が創価学会を宗教法人として認証しても東京都に固定資産税を課税するかしないか、審査権限があることになる。龍年光氏などが提起した前記の裁判では「課税すべし」との判決が出る可能性は十分あるというべきだろう。
 ドイツでの課税、非課税の基準は「租税通則法」で定められ、団体の活動が公益目的に適っているか否かが審査される。「公益目的」とは非営利的に公衆の福祉を追求することである。しかも、たとえ宗教団体の収支に余剰が生じても、それをメンバー間で配分してはならず、またその資金を直接、間接に政党に支出してもならない。資金を銀行などに積み立てることについても、制限を加えている。

 免税の資格審査では法人の所得内容が入念にチェックされる。免税資格を得た後も3年ごとに課税庁に帳簿を提出の上、審査を受けねばならない。過去、カッセル財政裁判所は統一教会に公益性を認めず、法人税の非課税扱いを拒否している。日本の教団の中には「信教の自由の侵害」を言い立てて帳簿の提出さえ拒む例があるが、そういう甘ったれた言い分に対しては、非課税特権を剥奪しなければならない。
 宗教法人を非課税扱いするのは、その宗教法人に対して目に見えない補助金を支出するのと同じである。要するに非課税の原資は国民の血税なのだ。とするなら、国民の税を有効に使おうとする観点からは安易に信教の自由の名の下に宗教法人として認証しない、非課税法人としないという税務行政が生まれる。日本の行政にはこうした国民の税が原資だという感覚がなく、文科省や都道府県が宗教法人として認証したが最後、その非課税を機械的に認めてなんら恥じるところがない。
 アメリカでも法人格の取得と税法上の特典とは別である。課税庁の審査には形式面と実質面の二つがある。形式面の審査では、@教団は設立者から独立した存在になっているか、A教義や礼拝の施設は整備されているか、B日常的に礼拝が行われているか、C宗教団体として活動実績があるか、D教典や戒律を持っているか・・などがチェックされる。
 実質面の審査では、@教団は教主などに私物化されていないか、A政治団体化していないか、B営利団体化していないか・・が要件になる。新設団体に対しては形式面から、既存団体の定期審査は実質面から行われ、ふつう違反が疑われる場合にも警告程度ですますようだが、過去、政治団体化を理由に免税資格を取り消したクリスチャン・エコーズ教団事件などがある。創価学会がアメリカでも日本と同様に政治進出すれば、政治団体化を理由にまちがいなく免税資格を取り消されることになろう。

 だいたい日本人の約8割は宗教を信じていない。信じている人はわずか20%である。幸せな生活を送る上で「宗教が大切とは思わない」人も71%に上る(95年7月、読売新聞の調査)。無信心者も年齢が加われば、しぜん神仏にすがるようになるという言い方も可能だろうが、実際には70歳以上の層で宗教を信じている人はわずか36%にとどまるという(前記調査)。
 つまり先進諸国と比べても、日本の宗教事情、あるいは無宗教事情は日本なりに特殊である。そうした実態に見合った宗教税制があって当然だが、日本の官僚や政治家は創価学会・公明党の勢威を恐れて、宗教非課税の現状を変えようとしない。

溝口 敦(みぞぐち・あつし)1942年生まれ。早稲田大学政経学部卒。出版社勤務を経てフリージャーナリスト。宗教関係をはじめ幅広く社会問題を扱う。著書に『堕ちた庶民の神』『池田大作創価王国の野望』『オウム事件をどう読むか』『宗教の火遊び』『チャイナマフィア』『あぶない食品群』『食肉の帝王』など多数。

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