2004-4-1
特集/検証! 創価学会「本部幹部会」の異様
聖教紙が報じない「週刊新潮」に浴びせる罵倒の言辞

ジャーナリスト 山田直樹

 創価学会機関紙・聖教新聞に掲載される池田大作名誉会長のスピーチや幹部らの発言が、しばしば「修正」されていることは周知の事実である。例えば、毎月開催される本部幹部会。毎回、場所を移して行われるこの集まりは、その後映像・音声を通信衛星(学会は、専用回線を持っている)を経由して、サテライトの各地創価学会会館などで受信され、信者のもとに届く仕組みだ。
 従って、真の意味で「本部幹部会」がどのように行われたかを確認しうるのは、池田氏や幹部が臨席した会場でのみ可能というわけだ。衛星経由のそれは、編集(カットなど)が加えられているケースがある。これは実際、サテライトで観た元会員らが、画面・音声上の不自然な移行があったと、数多く証言していることからも明らかである。
 ゆえに、聖教紙に掲載された幹部会記事と実際のそれには、かなりの隔たりがある。逆に言えば、それを問題視して聖教紙に抗議した会員が出た――などという話は寡聞にしてきかない。つまり聴取する個々の学会員にとって、「隔たり」はどうでもいいことなのだろう。

 発言すべてが「週刊新潮」攻撃

 小誌編集部は、2月に行われた本部幹部会の模様を記録したテープを入手した。以下、レポートするが、ここには聖教紙が報じない佐藤総合青年部長の発言がある。先述したように、この発言を多くの末端会員が各会館で聴取し、喝采を送り、拍手が巻き起こっている。それを前提に、考えてみよう。
 佐藤氏の発言は、すべてが「週刊新潮」攻撃に費やされている。筆者は昨年、「新・創価学会を斬る」連載を8回、新潮誌上で書いた。しかしながら、直接、それで原稿料をいただく以外、新潮社に格別の利害を持つものではない。ライターという仕事柄、依頼があれば吟味したうえで、様々な媒体に署名、無署名を問わず、書く。おかげさまで、件の連載は当初予定を大幅に超える回数に結果的にはなった。
 佐藤氏の発言には、明らかにこの筆者の連載に向けられたと思われる、看過できない中傷が込められていて、これは後述しよう。
 佐藤氏は、
 〈ウソは己の尊厳の放棄であり、絶滅であるとはカントの有名な箴言でありますが、社会の公器たるマスコミがウソを垂れ流すことは社会正義の放棄であり、絶滅であります。ところがはじめからウソと知りながら売らんがために記事を書く、社会問題化している雑誌があります。言わずと知れた週刊新潮であります〉
 と、切り出した。以下、新潮社が裁判で負け続けた案件や法廷でのやり取りを列挙して、「裁判で断罪された新潮社や週刊新潮」に罵倒の言辞を浴びせる。その上で、こう続けた。
 〈こうした週刊新潮のあり方に、どうやら会社の経営陣の中からも批判や不満が噴き出しはじめているようであります。これはつい先頃、新潮社の最高責任者の一人が学会を誹謗中傷した新潮のデマ記事について、学会の関係者にこう漏らしたというのであります。
 『世の中は呆れて見てるんでしょうね。たしかにあんな記事では恥ずかしい』
 皆さん、もう一度申し上げます。ほかならぬ新潮の最高責任者の一人が、あんな記事では恥ずかしい。こう漏らしたというのであります〉
 〈恥ずかしいというならば、これから週刊新潮のタイトルの下に、テレビドラマのようにこう書いてはいかがでしょうか。
 この雑誌の中身はあくまで記者が想像したフィクションであって、もとより真実であることなど確かめておりませんと、書くべきであると思いますがいかがでしょうか〉
 かさにかかって佐藤氏は吠える、
 〈皆から尊敬されている清廉潔白な池田先生を陥れるために、どす黒い妬みで週刊誌が書きなぐってきたウソ八百は、いずれも学会の勝利で決着しました〉
 さらに文春元編集幹部が、“名誉会長及び関係者にお詫びした”や“橋本総理(当時)、幹事長、自民党がそろって先生と学会に謝罪した”と続いて、
 〈そして今回、当の新潮社の最高首脳が新潮の記事は恥ずかしいと告白したのであります〉
 ゆえに、今こそ草の根の対話で、週刊新潮の学会に対するデマ記事は会社のトップも恥ずかしいと言っていると言いましょう――。佐藤氏は、そう煽っている。
 創価学会が自らへの批判記事をあげつらう時、必ず持ち出す理屈がある。学会関係者など匿名のコメントばかりで、いつ、どこで、誰が述べたのか記述がない。これだけでも「デタラメ」である――と。この伝でいけば、匿名の文春、新潮元幹部、幹部らが、いつどのような状況下で「謝罪」したのか、はっきりしないのだから「デタラメ」ということになる。
 佐藤氏の冒頭の発言を思い起こしてほしい。デタラメとは虚報であり、すなわちウソである。また、彼の指す「週刊新潮の学会に対するデマ記事」とは、発言の文脈からして筆者の連載も当然、該当する。では、いったい記事のどこが、どのように「デタラメ」なのか。これも一切、提示されていない。
 具体的事実の摘出なしに、一方的な批判を浴びせることを、世間では誹謗中傷というのである。法律上は、名誉毀損に相当する。この程度のことすら理解できない人物が、「総合青年部長」なる要職についている組織のレベルも、自ずと知れよう。
 老婆心ながら付け加えるが、連載開始以来、現在に至るまでこの記事に対する読者からの手紙、ファクシミリ、メールによる反響はまことに大きなものがあった。その数、ざっと数えて600余。うち99%には激励や支持が書き記されていた。これをまとめただけで、記事に対する一冊の本が出来るくらいだ。また、実売部数も堅調に推移して、減ることはなかった。前にも書いたが、週刊誌という媒体の性質上、筆者の連載のみが部数の増減を左右するわけではない。だが、減り続けていたら、その原因は連載記事に求められよう。
 こうした声や反響に支えられ、当初予定を大幅に上回る連載回数になったのである。もちろん、連載取材、執筆中に「恥ずかしい記事だから、中止せよ」と、新潮社幹部から申し渡されたことなどない。
 週刊新潮を購入するしないは別として、ならばこうした読者は、デマ記事に踊らされた“愚民”であるとでも言うのだろうか。

 臭いものに蓋して戦意を発揚

 仲間内の集まりでいくら威勢よく、強がりを言ってみたところで、世間一般はまったく別の目で創価学会を捉えていることを知らない、そして知りたくもない。否、そういう見方をする世間の方が、週刊新潮の読者の方が間違っている。佐藤氏の発言主旨は、そう聞こえないか。
 「皆から尊敬されている清廉潔白な池田先生」――この主語は「皆」でなく、「創価学会員」であろう。ところが連載を終えても、その池田先生の有り様に対して、疑問、批判を呈する住所、氏名、創価学会役職を明記した手紙が、なぜ週刊新潮編集部、編集長、そして筆者宛てに舞い込むのだろうか。
 以上のような要点に思いをいたす、自省心なり価値観の相対化は彼ら創価学会幹部にはないのだろうか。筆者と連載記事は聖教紙上でも誹謗中傷された。
・相も変わらず、昔のインチキ記事の焼き直しのようだ。
・中身は箸にも棒にもひっかからない駄文。
・(書いているのは)他誌の「おさがり」。
・書いているのもデマ雑誌のデマライター。

・日顕宗の御用ライター。
 どこが、どうインチキで、なにゆえ筆者はデマライターで日顕宗の御用ライターなのか。ここでも、記事の記述に沿っての具体的摘示はまったくない。創価学会とは、これほど「底の浅い」組織だったのか。1930年来の歴史を矜持にし、信者数は日本一を誇るこの宗教団体の実態・現実がこれほど理解しえるケースもなかろう。
 うがった見方をすれば、学会組織には佐藤氏の発言内容で分かる通り、かつてのような池田氏への宣揚、褒めちぎりだけでは済まないような「喝采」が必要とされる時期になってきたのかもしれない。
 時の権力者でも、出版社の幹部でもいい。とにかく学会や先生に詫びた、謝罪した、だから我々は正しい。皆、頭を下げる。裁判所(司法)でも、学会の正義が打ち立てられた。凄いだろう。池田氏の御威光ここにあり。というような文脈が、参院選に向かっての「戦意発揚」で使われ始めたということか。こうした硬直化した思考方法は、巨大化し疲弊した組織にしばしば起きる。
 裁判ひとつとっても、創価学会が原被告である訴訟に限れば、確かに彼らの言う通り、すべて勝利している。が、それ以外、学会員個人、公明党議員、離脱僧らが原被告の訴訟では、勝率2割を切っている。具体的事実とは、こういう事を言うのである。組織に鷹揚さがなく、臭いものに蓋をする悪弊が染みついてしまったから、その事実を聖教紙なり、本部幹部会で会員信者に伝えないのである。
 人間や組織には過ちがあるし、それを起こす。少なくとも世間一般の常識はそうだ。だから世間は、いかに学会員が池田先生の誤謬なき完全神話を滔々と語っても単純には信じない。どのような偉人であれ、悪事を働いたこともあるし、間違いも冒す。生身の人間とは、そのようなものであろう。ノーベル賞受賞者が、とんだ悪童だったケースなど枚挙に暇がないではないか。池田氏がそのような人間でないとすれば、これは「神」だということになる。少なくとも筆者は、そんな神の前にひれ伏すつもりはない。

山田直樹(やまだ・なおき)フリージャーナリスト。1957年生まれ。文庫本編集者を経て、「週刊文春」記者。イトマン事件など経済事件を担当し、作春独立。「週刊新潮」で「新・創価学会を斬る」を連載した。

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