特集/「池田大作重病」説をめぐって

「誇張と矮小」を使い分ける池田氏の“病気”/乙骨正生(ジャーナリスト)

 池田大作氏は_肺結核_だった?

 創価学会名誉会長池田大作氏が脳梗塞で倒れ、入院したとの情報が、四月末から六月にかけて政界やマスコミ界を駆け巡った。
 すでに本誌既報のように、学会本部広報室も「風邪と疲労」で体調を崩したことは認めており、機関紙「聖教新聞」が一カ月余にわたって池田氏の動静を報じなかったことからも、その病状がいかなるものであったかはともかくとして、池田氏の健康が損なわれていたことは間違いない。もっとも、齢七五歳、日本人男性の平均寿命にはまだ三歳ほど余裕があるとはいえ、すでに老境を迎えている池田氏に病気の一つや二つあったとしても決しておかしくはない。
 そもそも池田氏は、若い時分から自らが病弱であることを売り物にしてきた事実がある。なにも病気になったからといっていまさら病状を隠す必要など全くないのである。
 では、池田氏は過去にどのような病気を患っていたのか、日本経済新聞社から発刊されている『池田大作 私の履歴書』には、自らの病気遍歴が次のように書かれている。
 「血痰を吐いた。口をあわてて押えて、紙でふきとった。そのころ(昭和十九年)、私は結核が相当進行し、体は日々衰弱し、さらに疲労が積み重なる、という悪循環を繰り返していたのである。三十九度の熱を押して、出勤したこともあった。リンパ腺ははれ、ほおはこけはじめた。医師に悠々とかかれる身分でもなく、また世の中の雰囲気はそんなことを許すような状況にはなかった。(中略)
 私の結核の病状は悪化し、血痰と寝汗と咳の連続であった。二十年に入ったころは医師の勧めで鹿島の結核療養所へ行かなくてはならないだろう、というところまでいっていた」(「血痰」の項)
 「体がいよいよおもわしくなくなった私は、ほおがこけ、あご骨が出た顔を、兄のかたみとなった鏡の破片に映しては、よく母を思ったものだった」(「苦闘の日々」の項)

 「熱にうなされ、目がさめる。発熱して腕にキラキラと光る美しいまでの汗をかいた夜がいくたびもあった。これが二十二、三歳の私の青春の一面でもある。(中略)
 戸田先生も考えていたようであったが、私も心ひそかに三十歳まで体がもたないのでは、と危惧することがあった。体が弱くては、これからの労作業には、道が開けない。これが最大の悩みであった。ある時、血を吐いたことを(戸田)先生に見つかってしまったのである。先生は真剣な顔で私の体をさすってくださった。『若いのだから、生き抜くのだ。死魔と戦うのだ』といわれた」(同)
 この『池田大作 私の履歴書』の記述に基づくならば、池田氏は昭和十九年頃に肺結核を発病し、昭和二十年には結核療養所への入所が取りざたされるまで悪化。その後、二十二、三歳(昭和二十五、六年)になっても病状は好転せず、三十歳まで生きられるかどうか、わからない状態だったというのである。
 もっとも、喀血、咳、発熱と、他人に感染させるおそれのある程度まで病状は進んでいたと思われるにもかかわらず、池田氏は結核療養所に入ることもなく、また、さしたる治療をしたわけでもないのに、病状はにわかに快復したとみえ、「三十歳まで体がもたないのでは」と危惧していた昭和二十六年から、わずか一年後の昭和二十七年五月三日には、白木かねさんと華燭の典を挙げている。

 それだけに池田氏が本当に、肺結核を患っていたのかどうかには疑問符がつく。
 というのも、当時の池田氏を知る古参の元創価学会幹部は、「池田が結核だったなんて聞いたことがない」と話している。また、池田氏の小学校時代以来の親友であるT氏は、肺結核を患い千葉の結核療養所に入所して、数年にわたる療養生活を余儀なくされているが、そのT氏は、元気に社会生活を送る池田氏に羨望のまなざしを向け、見舞いにもこない池田氏をなじる日記を残している。そのT氏の日記には、自身が肺結核であること、療養所生活のあれこれ、さらには結核患者についての詳細な記述があるが、池田氏が肺結核だとの記述は一言もない。
 こうした事実に照らすならば、「三十歳まで体がもたないのでは」と心配された池田氏の肺結核が、額面どおりのものだったかどうかは疑わしく、むしろ病弱、肺結核とは、この小学校時代の同級生T氏の病気を、自らに引き当てて語ることで、学会員をはじめとする他者の同情を引くための「手」だったのでは、との疑惑が拭いがたい。
 というのも池田氏は、創価学会・公明党が昭和四十四年に引き起こした政治評論家藤原弘達氏の著作『創価学会を斬る』に対しての言論出版妨害事件の際、病気を徹底的に利用しているからである。

 熱発でも温泉三昧

 この言論の自由を踏みにじる創価学会・公明党の蛮行に対し、社会は厳しい批判を加え、四十五年春の通常国会では、池田氏の証人喚問が取りざたされるようになった。すると池田氏は、箱根にある創価学会の研修所に逃げ込み、穴籠りを決め込んだのだが、学会員に対してその理由は、「池田先生はいま、僭聖増上慢などの魔に攻撃されて体調を崩され、大変な熱で苦しまれている」などと説明された。池田氏を「熱に苦しむ」悲劇のヒーローに仕立てあげることで、創価学会ならびに池田氏を攻撃する政治家、マスコミ等に対する学会員の憎悪を掻きたてるとともに、「発熱」を国会喚問に応じない言い訳として利用したのである。
 だが、後に池田氏の女性スキャンダルが審理された「月刊ペン」裁判において、創価学会側が池田氏の潔白を主張するために提出してきた持永利之第一庶務室長記載の「池田行動記録」には、言論出版妨害事件当時、大変な熱で苦しんでいるはずの池田氏は、箱根研修所で優雅に温泉三昧の日々を送っていた事実が記されていた。
 現在、池田氏執筆とされる「新・人間革命」は、ちょうどこの言論出版妨害事件にさしかかっているが、その中で池田氏は、“病魔”に苦しめられながらも、病を押して学会員を激励する悲劇のヒーロー然として描かれている。要するに「発熱=病気」は言論出版妨害事件という一大危機を乗り切るための方便として利用されたのである。こうして肺結核や病気を“売り物”にする一方で、池田氏ならびに創価学会は、本当の病気になると情報を遮断、虚偽発表までして誤魔化すのである。
 昭和六十年十月に池田氏は、東京女子医大病院に入院したが、その際、創価学会はマスコミが騒ぎ出すまで入院の事実をひた隠しにし、入院の理由についても、「疲れと風邪気味」による「検査入院」と発表した。
 だが、実際には心臓疾患だったといわれており、池田氏自身が翌年になって「昨年、病を得た」と病気だった事実を認めている。また、平成十年に出版した『第三の人生を語る』の中でも、「昭和六十年(一九八五年)の秋、心臓検査のため、十日間ほど入院をしたことがあります」と、入院が、風邪と疲労による検査入院ではないことを明らかにした。
 それだけに今回の「風邪と疲労」による体調不良との発表も、にわかには信じがたく、本当は、脳梗塞や昭和六十年に発症したとみられる心臓疾患の再発なのではないかと、取りざたされているのである。

 健康が人生の最大事

 ところで、創価学会では、以前から学会員に対して「池田先生・奥様の御健康 御長寿 無事故」を朝夕の勤行で祈念させているが、この事実は、池田氏が病気や死を極度に恐れ、生に執着していることの表れと見ることも可能だ。実際、平成七年に池田氏は、月刊誌「中央公論」に掲載された「『戦後50年の生き証人』に聞く」と題するインタビュー記事に登場。ジャーナリスト・田原総一朗氏のインタビューに応じたが、その冒頭、健康に執着するこんな発言を行っている。

 田原 池田さんが生きていく上で一番大事にしているものはなんですか。
 池田 健康であり、生命です。健康でなければ活躍できない。たとえ財宝や名誉があっても、健康でなければ、人生の輝きを感じることもできないし、嬉しさもない。
 田原 健康の秘訣はなんですか。
 池田 これは画一的には結論が出ない問題です。人間は科学ではありません。それを前提にして、さまざまな知恵を働かせながら、どう自分の健康を維持するかは、個人個人の問題です。
 常識的にいえば、睡眠をとることです。ビタミンCで有名なポーリング博士と論じたときに、博士は「寝不足はいけない。寝過ぎてもいけない。年齢差、個人差もあるけれども、七時間は休むべきだ」と言っていました。
 田原 七時間、寝ていますか。
 池田 以前は寝ていなかった。最近は寝るよう