2003年12月15日号

特集/他者を罵り続ける「人権」教団の不可解

口汚い言論攻撃の温床
池田大作氏の教唆扇動が発生源


ジャーナリスト 乙骨正生


 本誌の連載「今月の悪口雑言――『平和と人権』を看板にする団体の“ホンネ”集」が、毎号、報じているように、今年も連日、創価学会は、「聖教新聞」等の機関紙誌で自らに批判的な立場にある人物や団体、政党、出版社等を罵り続けた。
 そこには他者の人権や名誉に対する配慮などは微塵もなく、「愚劣者」「極悪ペテン師」「ヘビ」「薄汚いドブネズミ」「人間の皮をかぶった畜生」「金の亡者」「酒乱・女狂い」「クズ野郎」「クズ雑誌」「デマ出版社」「ガセネタ屋」「異常人格」「前科者」「学歴詐称」「クソ坊主」「インチキ坊主」「デマ政党」「宗教弾圧議員」などと、竹入義勝元公明党委員長や山崎正友元創価学会顧問弁護士をはじめとする造反した幹部や議員、阿部日顕日蓮正宗法主や日蓮正宗関係者、「週刊新潮」や筆者、そして共産党や民主党の一部議員などに対する悪罵が書き連ねられている。

 「クズ」「ゲス」と開き直る

 その凄まじさ、執拗さ、そして口汚さについては、いまさら論じるまでもないが、一連の口汚い創価学会の言論を、「子供たちに読ませたくない日本語」として特集した「週刊文春」(10月2日号)には、「家庭に配布されている新聞に、これほど人間性を否定するような内容が掲載されているなんて」という女性教師の驚きの声が紹介されていた。また、いまや創価学会から「不倶戴天の敵」視され、連日、激しい攻撃に晒されている「週刊新潮」も、連載中の「新・創価学会を斬る」の第3回で「『ゴキブリ!』『犬畜生!』と仏敵4人組を罵倒する“宗教者”の正義」(11月20日号)と題して、創価学会の口汚い言論を取り上げたが、その中で日本のカルト研究の第一人者である浅見定雄東北学院大学名誉教授と、仏教学に造詣の深い山崎龍明武蔵野大学教授は次のように論評している。
 「宗教者は、信仰をやめた人に対しても引き続き救済を祈り続けるものです。脱会したからといって、その人物を罵ったり嫌がらせをしたり、或いは無理矢理に引き戻そうとするような行為は、全く考えられないことです。脱会者に対する嫌がらせなどを聞くたびに感じるのは、学会内部には、外部に知られては都合の悪いことでもあるのかという余計な心配です。何もないのならば、やめた人間が学会に関して何を言おうと平気なはずです。そもそも“ヘビ” “畜生” “くそ坊主”などという言葉は、宗教団体でなくても、使ってはいけないものです。まして宗教団体がこんな言葉を使ったら誰からも尊敬されるわけがありません。自らを宗教者として否定しているようなものです」(浅見名誉教授)
 「確かに、聖教新聞は凄いというか、面白いですねえ。とにかくボロクソです。こういうものを毎日読むと、相当精神に変調をきたすと思うのですが、いくら相手が自分とは相容れない価値観、信仰の人だとはいえ、ここまで言うかという思いですね。これに学会員たちが違和感を持っていないということへの違和感を私は感じます」(山崎教授)
 ごく当たり前の人権感覚を持っていれば、他者を悪し様に罵る創価学会の言論に違和感を覚えるのは当然のこと。だが、創価学会には浅見教授や山崎教授が述べたような“正論”は通用しない。通用しないどころか創価学会は、創価学会の口汚い言葉を「子供たちに読ませたくない日本語」だと批判した10月2日号「週刊文春」が発売(9月25日)されるや、9月27日付「聖教新聞」掲載のコラム「破邪顕正」に極めて挑戦的な一文を載せ、こう開き直っている有り様なのだ。
 「糞犬! 癡猿! 日顕のごとき極悪を『極悪』と斬り、山崎のごときゲスを『ゲス』と笑い、新潮・文春等の『子供たちに読ませたくない』クズ雑誌を『クズ』と叩いてこそ、日本の民主主義は守ることができる。
 言うべきことを言わない臆病な“お澄まし屋”は悪を増長させ、善を虐げる加担者だ。
 俗耳に入りやすい甘言で人々を誑かすウソ議員やデマ雑誌やエセ宗教。これらの魔物を打ち倒し、日本に精神復興の光をもたらすのが、正義を打ち込む創価の言論闘争だ」
 自らのみを「正義・善」とし、批判者を「魔物」呼ばわりして、これを「打ち倒す」ことを声高に叫ぶ創価学会の姿勢に、強い「違和感」を覚えるのは筆者だけではあるまい。
 周知のように創価学会は、フランスの国会報告において二度にわたって有害セクト(カルト)としてリストアップされているが、敵と味方を単純に色分けし、そこに正邪・善悪のレッテルを貼り、敵の殲滅を叫ぶステロタイプのアジテートは、多くの有害セクトに共通して見られる特徴でもある。

 指導者の性格が投影される

 そうした有害セクトのうち宗教的セクトでは、絶対的な権威・権力をもつ教祖やグルなどが、構成員一般に対して強大な影響を及ぼしている。それらのセクトでは、教祖やグルの言葉こそが真理、絶対的規範になり、教祖やグルのキャラクターがそのままセクトの体質・性格を決定づけていくことになる。
 創価学会にあっても「永遠の指導者」(「創価学会会則」)と崇められている池田氏の発言は、真理、絶対的規範とされる。その結果、各種の会合における池田氏の発言、指示、命令は、たとえそれが理不尽なものであっても、現実の活動として具現化されていくことになる。
 識者や一般が眉を顰める創価学会の口汚い言論が恒常的に繰り返される背景には、こうした池田発言の具現化という構造、換言するならば池田氏の教唆扇動が指摘できる。
 では、具体的に池田氏はどのような発言をし、学会員を教唆扇動しているのか。そのいくつかの例を紹介しよう。例えば、平成元年3月12日、池田氏は埼玉指導の席上、「仏法は勝負」という言葉を引用しつつ、「反逆者」を怒鳴りつけていけと次のように指示している。
 「『仏法は勝負』にどれほど深い意義があるのか、皆わかっていない。物事は正邪ではない。勝つか負けるかなんだ。全員が『勝つ』と強く決めていけ。勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ。私は恐れなど微塵もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気、強気、強気、でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴っていけばいいんだ。(中略)反逆者には、この野郎、馬鹿野郎でいいんだ」
 ここには物事の是非善悪、理非曲直を判断しようとの姿勢は全くない。暴力的に相手を打ち倒すことが勝利であり、それが「仏法は勝負」の奥義だというのである。現在、創価学会は世界各国で「ガンジー・キング・イケダ」展を開催、池田氏を非暴力抵抗の思想を提唱したインド独立の父・ガンジーに並ぶ平和の偉人であると宣揚しているが、正邪など関係なく他者を「怒鳴」りつけろとアジテートする人物が、非暴力抵抗の系譜を踏襲した平和の偉人とは片腹いたい。
 まして「仏法は勝負」と仏教における「勝負」の概念を、数量や力の強弱などで判断する世俗の勝敗へと単純に置き換えることの乱暴さには開いた口がふさがらない。創価学会が宗祖と仰ぐ日蓮聖人は「四条金吾殿御返事」なる御書(遺文)の中で、「仏法と申すは道理なり、道理と申すは主に勝つものなり」と、そもそも「仏法」とは理非曲直を糾した道理に基づくものであり、道理というのは世俗的権力や世俗的価値を超克するものと判じている。「仏法」における「勝つ」という言葉の意義はこうしたものである。「正邪」を抜きにして相手を打倒することが「仏法は勝負」の奥義などとは、とうてい言えたものではない。


 仏教用語を恣意的に解釈

 だが、池田氏はこうした点には委細かまわず、我田引水的・恣意的に仏教用語を曲解し、自己の言動を正当化する根拠と位置づけている。
 そうした御都合主義的な用語解釈の最たるものに「仏法とは仏と魔との戦い」との言葉がある。これは創価学会を「仏意仏勅」の正当な仏教教団、すなわち「仏の勢力」と位置づける一方で、創価学会に仇なすものを「魔=仏敵」と位置づけ、「仏法」は絶えざる「仏の勢力と魔の勢力」の戦いであるとして、創価学会による批判者攻撃、対立者攻撃を正当化する考え方である。
 衆院総選挙の過程で、池田氏は「聖教新聞」紙上に随時、「随筆 新・人間革命」を掲載したが、その中でこの「仏と魔との戦い」という言葉を多用した。もとよりここでの使用目的は、「仏の勢力」である創価学会が推す公明党候補の当選を阻害する「魔」を断固としてうち破れという意味である。
 「仏法は仏と魔の闘争 善が勝つか悪が勝つか――その熾烈な精神の闘争、邪悪との戦いが仏法だ」(平成15年10 月22日付「聖教新聞」「随筆 新・人間革命」)
 「『人生は仏と魔との戦いである』と、釈尊(釈迦)は示した。蓮祖(日蓮)は、『仏法は勝負である』と説かれた。負けぬために、正しき信仰がある。勝つために正義の信仰がある」(平成15年11月5日付「聖教新聞」「随筆 新・人間革命」)
 「仏敵」である「魔」は「極悪」であり、「犬畜生」に劣る。当然、人権など顧みる必要などないということになる。こうした手前勝手な理屈が、創価学会の批判者・対立者への口汚い言論の温床になっているのである。

 検事や学生に「復讐」を扇動

 さらに池田氏は創価学会の活動の基軸をなすのは、「復讐」であると、「復讐」教あるいは「怨念」教さながらの言説も繰り返している。例えば昭和51年8月22日、池田氏は神崎武法氏(現公明党代表)ら、「自然友の会」と呼ばれていた学会員検事のグループと面談した際、次のように発言している。
 「私が戦ったのは、戸田先生の復讐のためだけだ。革命とは復讐戦だよ。戸田先生は、牧口先生の復讐のために戦った。私の復讐は弟子たちがやるんだ」
 同様に平成8年11月3日に創価大学で開催された「創価同窓の集い」の席上、次のように話している。
 「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」
 これに先立つ昭和41年9月号の「前進(幹部用テキスト)」にもこうある。
 「戸田先生や牧口先生の仇をうつために、(私は)会長になり、立ち上がったのである。あとなにもない。これが師弟の道です。これが同志の契りです」
 学会員の検事や創価大学のOB・OGに「復讐戦」「仇討ち」を命じる池田氏。こうした指導を受けている学会員検事が、仮に創価学会が新潮社や筆者を名誉毀損罪で刑事告訴し、その担当となった場合、公正・公平な司法行政が担保されるのだろうか。
 今年1年、いや自・自・公連立政権成立以来からだけでも、すでに4年余にわたって創価学会と対立する立場の人物や団体を口汚く罵り、激しい攻撃を加え続けている創価学会だが、そのすさまじいばかりの「怨念」は、すべて「永遠の指導者」である池田氏が発生源なのである。

乙骨正生(おっこつ・まさお)フリージャーナリスト。1955年生まれ。創価中学・創価大学法学部卒。宗教・政治・社会分野などを取材、週刊誌・月刊誌を中心に執筆。著書に『怪死』(教育資料出版会)『公明党=創価学会の野望』『公明党=創価学会の真実』(かもがわ出版)など。