特集/「池田大作」人間性の原点 私の見た「池田大作」の実像(1)
―龍年光氏(その1) 虚偽とハッタリの「入信神話」 乙骨正生(ジャーナリスト)

 「池田大作という人間は、初めからウソとハッタリの塊だったんです」
 創価学会の元青年部参謀、統監部長、壮年部長で、公明政治連盟書記長、都議会公明党幹事長、副議長などを歴任した龍年光氏は、池田大作創価学会名誉会長の人間性をこう厳しく批判する。
 草創期の創価学会青年部で第四部隊長を務めた龍氏。池田氏はその龍部隊に班長として所属していた。また、ともに青年部の参謀として学会活動に従事するなど、龍氏は池田氏の素顔、実像を若い頃から間近に見てきた一人である。
 その龍氏は、日本経済新聞社から発行された『私の履歴書』や『私はこう思う』などに書かれた池田氏の経歴やエピソードは、ほとんどフレームアップされた虚偽だと指摘する。
 特に、小説という形はとっているものの、創価学会内部では池田氏と創価学会の"真実の歴史"と位置づけられている『人間革命』は、ウソと虚飾で塗り固められた稀代の「悪書」だと批判する。
 これまでにも創価学会から造反した元最高幹部が、虚偽、偽造の履歴の奥にある池田氏の素顔を明らかにしたことがあるが、龍氏は池田氏の入信の場面や、池田氏が『人間革命』の中で戸田城聖会長から後事を託されたとする場面にも立ち会っている。
 いずれの場面も池田氏の姿が格調高く描かれ、そこに戸田氏と池田氏の仏法上の"不思議な縁"があるかのように記述されている。  だが、事実は全く異なり、『人間革命』や『私の履歴書』に記述された場面は、偽造、虚偽以外のなにものでもないという。  龍氏に「私の見た池田大作の実像」を語ってもらった。
 1 入信神話のウソ  昭和二十二年八月十四日、池田大作氏は、小学校時代の同級生に誘われ、東京都大田区蒲田にある三宅穣氏宅で行われていた創価学会の座談会に出席した。その座談会で戸田氏と運命的な出会いをして入信を決意。その喜びを即興の詩に託して読んだという。『私の履歴書』には、その場面が次のように記されている。
 「二回目の終戦記念日を迎えようとしていた蒸し暑い真夏のある夜である。小学校時代の友だちが訪ねてきて『生命哲学について』の会があるからこないかという。生命の内的自発性を強調したベルグソンの『生の哲学』のことかと、一瞬思って、尋ねてみたが『そうではない』という。私は興味を持った。約束の八月十四日、読書グループの二人の友人と連れ立って、その『生命哲学』なるものを聞きに向かった」  「この日、この運命の師と会ったことが、私の生涯を方向づけることになったのであるが、その時は知るべくもなかった。ただ、初対面ながらも不思議に親しみの情がわき上がってくるのを禁じえなかった。講義と質問への応答が一段落すると、戸田先生は微笑しながら『幾つになったね』と尋ねられた。仁丹をかみ、たばこもふかしておられた。十九歳ということを耳にして、ご自身も故郷の北海道から東京へ初めて上京した時もそんな年ごろだったと懐かしげに語られる。
 私は教えていただきたい、と質問をした。『正しい人生とは』『本当の愛国者とは』『天皇をどう考えるか』この三点であった。簡明直截な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶようなこともない。『これだ!』と思った。この人のいっていることは本当だ! 私は、この人なら信じられる、と思った」
 「私は、なにかしらうれしかった。その日、自分の所懐を即興の詩に託して誦した。  旅人よ  いづこより来り  いづこへ往かんとするか  月はしずみぬ  日は いまだ昇らず  夜明け前の混沌に  光 もとめて……」
 また『人間革命』では、この出会い時の池田氏の年齢が十九歳であり、戸田氏の年齢が四十八歳であったとし、戸田氏が初めて牧口常三郎氏(後の創価教育学会会長)と出会った際の年齢も戸田氏十九歳、牧口氏四十八歳だったとして、戸田・池田の出会いが、牧口・戸田の出会いの再来、因縁めいた不思議な出会いだったかのように記述している。
 だが、実際の座談会に、こうした事実はなかったという。

 龍 『人間革命』や『私の履歴書』に書かれている池田大作の入信の場面はまったくのウソです。
 昭和二十一年に戸田城聖先生から、日蓮正宗の信仰の素晴らしさを伺い入信した私は、以後、戸田先生の出席される各地の座談会に出席していました。
 昭和二十二年の八月十四日も、私は蒲田方面の拠点の一つであった三宅穣宅で行われていた座談会に出席したのです。私が玄関をあがってすぐの座敷の角に座っていると、やがて三宅さんの次女に連れられて一人の風采のあがらない若い男が入ってきて、私の斜め前に座りました。それが池田だったんです。
 池田は黙って戸田先生の話を聞いていましたが、「質問のある人は」といわれ、戸田先生に天皇制の質問をしました。
 戸田先生は懇切丁寧に答えていました。やがて池田は立ち上がって胸のポケットから紙切れみたいなものを出し、ボソボソと一人で下を向いて何かいって、そのまま挨拶もせず、プイッと出ていってしまったんです。慌てて三宅さんの次女が追っかけていきましたが、挨拶もせずに出ていくなんてなんと無礼な奴なんだろうと私は思いました。
 ですから戸田先生が池田に歳を聞いて、ご自分が上京されたことを懐かしげに語られたり、朗々と詩を詠んだなどということは絶対にありません。むしろ池田がいたことすら、出席していたほとんどの人が意識することもなかったと思います。
 それだけに『人間革命』に記された入信場面を読んだ時には本当に驚きました。そこで当日の座談会の責任者であった辻武寿(後に公明党委員長、副会長)に、「『人間革命』にこんな風にかかれているが、覚えていますか」と尋ねたところ、「俺は何も知らんなー、そんなことがあったとは」と吐き捨てるようにいいました。彼も池田のデッチ上げに腹を立てていたようでした。
 池田はこの後、青年を入信させたいとの戸田先生の意を受けた小平芳平(後に教学部長、公明党参議院議員)に折伏され、入信したと聞きました。八月十四日の座談会で戸田先生と不思議な出会いがあり、入信を決めたなどというのは真っ赤なウソです。
   龍氏の指摘どおり、池田氏が昭和二十二年八月十四日の座談会で入信を決意したという事実はない。そのことは当の池田氏自身の発言からも確認できる。例えば、池田氏は「聖教新聞」紙上で、
 「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんです」(「聖教新聞」昭和三十二年十月十八日)
 などと語っている。また、池田氏は昭和三十年頃、宗教学者の小口偉一氏のインタビューに答えており、その内容は『宗教と信仰の心理学』に掲載されているが、そこには入信を嫌がり、いつ創価学会をやめようかと考えていた池田氏の"率直"な心情が記載されている。そのいくつかの発言を紹介しよう。
 「南無妙法蓮華経が嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない」
 「それでお題目を唱えろということでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていました。それから御本尊をお下げするという話では、私は三十分間ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました」
 またこのインタビューの中で池田氏は、御本尊を家にもって帰ってから後も三日間拝まずに放っておいたこと。しかし、三日目にものすごい雷がなり怖くなり、おもわず題目を唱えたこと。さらにはいつやめようか常に考えていたことなどを素直に語っている。
 「それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。ぜんぶの宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか。寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」
 ここには戸田氏との出会いに感激し、即座に戸田氏について信仰の道を歩むことを決意したとの『人間革命』や『私の履歴書』に記載された入信神話は微塵もみられない。
 ところで『人間革命』の中で池田氏は戸田氏と池田氏、牧口氏と戸田氏の出会いの年齢がともに十九歳と四十八歳だったと記し、そこに特別の因縁があるかのようにアピールしている。だが実際の年齢は池田氏の年齢こそ十九歳ではあるものの、戸田氏は四十七歳、牧口氏と戸田氏の出会いの年齢は牧口氏四十九歳、戸田氏は二十歳だった。年齢の一致をもって牧口・戸田・池田と続く会長の系譜の正統性を強調しようとしたのだろうが、この年齢の一致という主張もまったくの虚偽である。
 入信から一年四カ月後の昭和二十四年一月三日、池田氏は戸田氏が経営する出版社日本正学館に入社し、「冒険少年」という少年雑誌の編集に携わるようになる。もっとも編集とはいえ、その仕事は池田氏自身が先の『宗教と信仰の心理学』で、「戸田さんの出版に小僧から入りました」と語っているように、使い走りのようなものだったようだ。
 当時、日本正学館の一階にあった業界新聞に勤めていたことのある著名な作家S氏は、「当時、二階に池田がおり、『オーイ、煙草買ってこい』などと煙草を買いにやらせたりしていた」と語っている。

 龍 昭和二十四年当時、私は東京・西神田にあった旧学会本部に戸田先生の講義や指導を受けるため通いました。そこで池田が戸田先生の会社に入ったことを知ったのです。池田は中二階の一角に置かれた机で編集雑務のようなことをやっていました。
 その池田と私が初めて口をきいたのは、それから間もなくのことでした。場所は蒲田方面の中心者で後に理事長となった小泉隆宅です。小泉宅で行われた会合に出かけたところ、小泉宅にはまだ誰も人が集まっておらず、私が一人で待っていると池田がやってきたのです。三宅さんの座談会で新来者として私の前に座っていたし、戸田先生の会社に入っていることは知っていましたので、私の方が年長で信仰歴も早いので、私は池田に「やあ、その後どうだね」と声をかけたのです。
 すると池田は私の方をねめつけるように見た上で、開口一番、「いまに世界をアッといわせてやる」といったのです。
 アッと驚いたのは私のほうですよ。普通は「ええ、なんとかやっています」などと答えるものでしょう。それがいきなり「いまに世界をアッといわせてやる」ですからね。私は池田は「頭がおかしい」か「気が狂っている」のではないかと思いました。
 その後、池田は一言も口をきかず傲然としていました。私も二の句が継げませんでしたので、人が集まるまで二人で黙って座っているだけでした。三宅さんの座談会の時もそうだったように、池田は初対面の挨拶ひとつ満足にできない男です。これ以後、池田はしょっちゅう「天下を取ろう」などと口にするようになりましたが、このように池田の人生は当初からハッタリと虚偽に満ちていたのです。
 創価学会は池田氏を「釈尊」や「日蓮大聖人」と並ぶ偉大な仏法指導者、「法華経の行者」などと喧伝している。だが、池田氏の権威や権力の源泉である池田氏に付帯する宗教的属性は、そもそも入信の時から虚偽とハッタリに飾られていたのである。

(以下次号)

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